サンクトペテルブルク案内書
サンクトペテルブルク市は、1703年5月16日(旧暦。新暦では27日)、ピョートル大帝により建設され、1712年にモスクワより遷都、西欧各国より優秀な建築家を招き西欧的な都となった。ロシア革命の翌年の1918年3月、再びモスクワに遷都されるまでの2世紀の間、ロシアの首都、政治・経済・文化の中心地として繁栄。
1914年第1次世界大戦の勃発とともに、市の名称をドイツ風の「ペテルブルグ」からロシア風の「ペトログラード」に改名。更に、1924年のレーニンの死後「レニングラード」と名が変わった。第2次世界大戦中の1941年から1943年までの900日間、市はドイツ軍によって包囲され、膨大な餓死・戦死者(軍・民合計130万―150万といわれる)を出した。ペレストロイカ後の1991年6月、し改名に関する住民投票が行われ、其の結果、同年9月に市の名称は再び「
サンクトペテルブルク」となった。
■ ペトロパヴロスク要塞。
スヴェーデんとの北方戦争 (1700-1721)のさなか、ピョートル大帝はこの地にバルト海への出口として港町を建設するにあたり、その防護のためネヴァ河口にペテロパヴロフスク要塞を築造しました。
この要塞の建設は、1703年5月16日(旧暦)に始まり、サンクトペテルブルクの誕生の日とされています。その後バルト海のクロンシュタット島に要塞が建設されたため、ペトロパヴロスク要塞の本来の役割は終わりました。その後、この要塞は政治犯を収容する監獄と変わり、帝政に反対した多数の人達がここに投獄されました。その中には有名な作家ラジシチェフ、ドストエフスキー、チエルヌイエフスキー、ゴーリキー、アレクサンドル・ウリヤーノフ(レニン兄)等がいます。
この要塞は小さな島の中にあり、2つの橋によって結ばれ、中央にはペトロパヴロスク寺院があり、この寺院にはピョートル大帝からアレクサンドル三世まで、ピョートル二世及びイワン六世を除きロマノフ王朝時代の皇帝の棺が安置されています。寺院の建築家はドミニコ・トレジーニで、その尖塔の高さは122。5メートルあります。
■ ストレルカ。
冬宮からペトロパヴロスク要塞を望んでネヴァ河の左中央に突き出ているのが、ワシリー島の
ストレルカ(岬)です。ここからネヴァ河の上流を眺めた景色が最も美しいと言われています。この突端の背後には中央海軍博物館、文学博物館、動物学博物館、人類学博物館(旧クンスト・カーメラ)、サンクトペテルブルク大学、科学アカデミーの建物が見えます
■ ローストラの柱。
19世紀の中頃までここは港で、赤い柱は灯台の役目を果たしていました。現在は大きな際典の時に、この灯台にガスの火がともされます。柱はローストラの柱と言われ、船の岬を意味し、敵の岬を切って飾るのは勝利を表すローマの伝統です。
柱の下には白い彫刻があり、これはロシアの川を表現しています。
■ 中央海軍博物館。
ストレルカの背後にある白い柱のある大きな建物は、中央海軍博物館で、昔の証券取引所。両側にある建物は(旧倉庫。現在は動物学博物館と地質学博物館)のアンサンブルは19世紀の始めに造られ、ローストラの柱とともに建築家トマ・デ・トモンの手によるのものです。
■ ロシア文学博物館。
この博物館には、ロシアの作家の原稿、日常品、作品などが陳列されており、プーシキン、レールモントフ、ゴーゴリ、トルストイ、ドストエフスキーなどの作家の記念品や遺品等が展示されています。
■ サンクトペテルブルク国立大学。
1719年官庁街として建築家トレジーニによって造られ、1819年からペテルブルグ総合大学として使われるようになりました。
この大学では、ロシアの有名な学者メンデレーエフ、
パヴロフ、シェチェノフ、チエルヌイエフスキー、ネクラーソフが学び、レーニンもここで法律学部の卒業検定試験を受け弁護士資格を取得しました。 現在、総合大学には19の学部があり、2万5千人の学生が勉強し、毎年2千人が卒業しています。
日本語学科生は40名です。
■ 科学アカデミー・サンクトペテルブルク支部。
ロシア科学アカデミー本部として1789年にクワレンギによって建てられ、1934年に科学アカデミー本部のモスクワ移転に伴い今では科学アカデミーのサンクトペテルブルク支部になっています。
■ メンシコフ宮殿。
サンクトペテルブルク大学本部の左手にある大きな細長い黄色の建物がピョートル大帝の寵臣メンシコフの邸宅だった建物で、1917年6月第一回全ロシア・ソビエト会議が開催されたことでも知られています。現在はエルミタージュ美術館の別館となっており、一般に開放されています。
■ 芸術アカデミー。
メンシコフ宮殿の左手にある茶色の建物が、18世紀末頃建築家デラモトによって造られた芸術アカデミーで、有名なロシアの画家レーピン、スーリコフ、セロフ、ヴォロニーヒン、クロート、アニクーシンなどが学び教えたところです
。
■ デカブリスト広場(旧元老院広場)。
デカブリスト広
帝政時代、この広場はセナツカヤ(元老院)と呼ばれ、1825年デカブリスト達がこの広場で反乱を起こしたことを記念して、革命後デカブリスト広場と改名されました。(デカブリストという言葉は12月党員と言う意味で、1825年12月14日に反乱を起こしたことからデカブリストと呼ばれています。)
ピョートル大帝銅像 (青銅の騎士)
この広場の中央には馬にまたがったピョートル大帝の銅像が立っており、詩人プーシキンがこの銅像を”青銅の騎士”と名付けたことで有名で、1782年仏の彫刻家ファルコーネがエカテリーナ二世の命により作ったものです。
この銅像の土台は波の形をしており、ピョートル大帝の海の出口を開こうとする意味を、後足で立った馬は発展するロシアを意味し、また、馬が踏んでいる蛇は敵を意味し、ロシアの勝利を象徴しています。
旧元老院と旧宗務院
デカブリスト広場の道路沿いにある黄色い建物が帝政時代の元老院(向かって右側)と宗務院 (向かって左側)です。19世紀中頃建築家ロッシによって建てられ、現在は記録文書保管所となっています。
■ 聖イサク寺院。
世界で丸屋根を持っている寺院のうち3番目に大きな寺院で、高さは101。5メートル、仏の建築家モンフェランの手によるもので、1818年に着工し、1858年に完成しました。帝政時代は皇帝の礼拝所でした。この建物の下はデルタ地帯で土台が弱いため数万本の丸太が打ち込まれています。建物の重量は30万トンもあります。
■ イサク広場。
アストリア・ホテル、 聖イサク寺院、市議会(旧マリインスキー宮殿)等に囲まれたこの広場は現在のサンクトペテルブルク市の中心地点であり、幹線道路の路標にはここからの距離を表示。広場の中央のニコライ一世の銅像は、彫刻家クロードと建築家モンフェランにより
1859年に建立されました。馬は2本の足、即ち2つの支柱で支えられているのが特徴です。
■ 旧マリインスキー宮殿。
ニコライ一世の銅像をはさんで聖イサク寺院の前方にマリインスキー宮殿があります。この宮殿はニコライ一世の娘マリアのために19世紀中頃建築家シタケンシナイデルによって建てられたもので、現在はサンクトペテルブルク市議会が入っています。
■ アレクサンドルの塔。
宮殿広場の真ん中にある塔は、アレクサンドルの塔でアレクサンドル一世のナポレオンに対する戦争の勝利を記念して作られ、塔の先には平和の神の天使が飾られており、その高さは、47メートルで重さは600トンあります。この塔は土台石に固定されておらず、自重を利用して立っています。
■ マルスの広場。
昔ここで観兵式があったため、ローマの軍神の名を取り、マルスの広場と命名されています。中央には革命の活動家達の記念碑が建てられ、永遠の火が常時点されています。
■ 旧参謀本部と凱旋アーチ及び旧近衛部隊本部。
宮殿広場を隔てて冬宮前方にある建物が旧参謀本部(1829年建築家ロッシにより建設)で、2つの建物が凱旋アーチで連結されています。このアーチの上の彫刻の馬はギリシャ、ローマの伝統で勝利の女神を表しており、1812年のナポレオン戦争勝利を記念して建てられました。旧参謀本部に向かって左側に旧近衛部隊本部(1848年建築家ブリューロフにより建設)の建物があります。
■ 冬宮 (エルミタージュ美術館)。
冬宮は王宮として1711年ピョートル大帝の時に建てられ、現在のエルミタージュの主体を成す冬宮は建築家ラストレリによって18世紀後半に建設されたバロック式の堂々たる宮殿で、歴代皇帝の住居でしたが、革命後付属の建物を併せ美術館となりました。内部の部屋の全長は27キロにもおよび、収蔵している絵画その他は総数300万点と言われています。
西欧の美術品はレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエル、ミケランジェロ、ルーベンス、レンブラントなどのものから、現代のピカソ、マチスの絵に至る莫大なコレクションがあり、ロシア、エジプト、ビザンチンの古代遺物等が陳列されていますが、特に注目すべきものはスキタイ文化の黄金細工コレクションであり、これは特別室に陳列されています。
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